INTERVIEW:

DJ FUMIRATCH

「自分の作りたい音楽、作る音楽にそんなに自信がないんですよね。ただ今回に関しては、そういう自分の音楽が、この時代にどう受け止められるんだろうという挑戦の意味合いがすごく大きくて。そういう『この内容がどう受け止められるかな』っていう、不安とワクワクがモチヴェーションではありましたね」

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 般若のバックDJとしても知られるDJ FUMIRATCHが、初のプロデュース・アルバムとなる「EXTERMINATOR」をリリースした。これまでもミックスとして「般若万歳」シリーズの制作に加えて、般若×ZORN×SHINGO☆西成による“GO”(2015年)のプロデュースなど、断片的にトラックメイカーとしてのプロダクションを形にしてきたDJ FUMIRATCH。
 
 その初ソロ作には、客演アーティストとしてNORIKIYOやBES、BRON-Kといったヴェテラン勢から、RENE MARSやOZworld、¥ellow Bucksといった新進気鋭のラッパー、GaiやDevinのようなニューカマー、SONOMIや弘jr.などのシンガー、そして般若、SHINGO☆西成、ZORNという、昭和レコードの面々を揃え(ZORNは昨年レーベルを離脱)、強力な布陣を敷いた作品となった。そしてFUMIRATCHの作り出すビートも、今様からオーセンティックまで幅広く、同時にピアノや鍵盤を基調にしたドラマティックな感触も強く、しっかりとラッパー陣の豪腕を倍加させる精度の高い構成が印象に残り、しっかりとトラックとラップとが丁々発止でぶつかり合っている。
 
 彼のキャリアにおいて、明確に分水嶺となることを感じさせる、タフでいながらも、丁寧に組み上げられた一作だ。
 
 
■以前、リベラル(a.k.a. 岩間俊樹 from SANABAGUN.)君にインタビューした際に、地元が一緒だったFUMIRATCH君と一緒に活動してた時期があったと伺って。
 
「僕も彼も青森の三沢出身で、歳も同じなんですよね。それで彼がMCで、僕がDJというスタイルで、高校のときからお互いに上京してちょっとの間も、タッグで動いてましたね。グループっていう形ではなかったんですけど、バックDJもやってたし、高校のときから自分でもトラックも作ってたんで、それを使ってオリジナル曲をレコーディングもしてて」
 
 
■DJを始めたのも高校の頃?
 
「DJは14歳のときに始めて。テレビにDJ KENTAROさんが出てて、そのプレイを見て、っていうのが一番のキッカケでしたね。ラップ・グループがテレビに出るのは珍しくなかった世代なんで、そういう流れでラップやHIP HOPは知ってたんですが、『ラップしてない後ろの人は何やってるんだろう』とずっと思ってて(笑)。それで、DJ KENTAROさんのプレイを見て、『こういうことだったんだ、自分でもやりたいな』って」
 
 
■DJ KENTAROがDMCの世界大会で優勝したぐらいのタイミングですね。
 
「そうですね。それのちょっと後ぐらいだったと思います。あと、三沢はなぜかターンテーブリスト熱が高かったんですよね。『S.I.T DJ BATTLE』っていうイヴェントが定期的に開かれてて、僕も中3のときから出させてもらったり。それから、三沢にあったレコード屋には『Red Bull Thre3Style』でジャパン・ファイナルにも進んだ、自分の師匠筋にあたるDJ SONICさんが働いてて、その店に週に何度も足を運んで、いつも練習させてもらってたんです。そうすると『いつも夕方に店でDJの練習してる高校生』ってことで地元のDJとも繋がっていって(笑)。八戸だとDJ SOUMAさんがいたり、青森はDJ同士の繋がりは広かったと思いますね。僕自身もそういう先輩方にいろいろ教わりながら、高1から高3までDMCの東北大会に出場してて。ただ、18で東京に出てきて、そこでもちょこちょこDJバトルには出てたんですけど、もうその時期には『ターンテーブリズムはもういいかな』って。なんというか、モチヴェーションが上がらなくなったんですよね」
 
 
■それは何故?
 
「例えば3分とか6分のルーティンを、半年とか、もっと時間をかけて組み立てて、ひたすら練習する。でも、そのプレイやルーティンが光を浴びるのって、大会の1日とか2日ぐらいのモンで。だから、365日の中で、そのごく短い時間に光を浴びるために、半年以上の時間を費やすのって、割に合わなくない?って(笑)。賞金が何千万とかだったら話は別ですけど、そういうわけでもないし、これはモチヴェーション保てないな……って。だからといってクラブ・プレイの方にすぐ入れるかっていうと、集客だったり、縁の問題だったりで入り込めなくて、どうしようかな?と思ってたときに、般若さんのDJ募集の告知を見たんですよね」
 
 
■そのときって19歳ですよね。だから、般若君のバックDJに10代のDJが抜擢されたというのは、かなり衝撃でした。
 
「般若さんがホームページでライヴDJを募集してて、そこに応募したのがキッカケでしたね。当時、HANGとかも出てたイヴェントでDJショーケースみたいなプレイもしてたんですけど、その映像を応募のときに送ったら、しばらくして本人から直接電話がかかってきて驚きました(笑)。それで、電話でお話した後に直接会って、その後リハスタに入ったら、『じゃあ今週末ライヴだから頼むわ』ってなって、今に至ります(笑)」
 
 
■そんなに一気に話が進んだんですね。
 
「ただ、般若さんに送ったショーケースで使ってたレコードが、SHINGOさんの音源だったんですよね。ちょうど僕がバックDJになるタイミングで、SHINGOさんも昭和に加入することになったんで、それは運命的なものを感じましたね」
 
 
■般若君とは面識はあったんですか?
 
「まったくなかったですね。ただ、僕が中学生のときに『おはよう日本』や『根こそぎ』が出て、高校生で『内部告発』っていう直撃世代っていうのもあって、単純に般若さんのファンだったし、別にビビるっていうこともなくて。渋谷O-EASTでやってたワンマン(『渋谷 8.27 ~Live At Shibuya O-East 2009』/DVD化もされている)も観に行ってたりもしたんで」
 
 
■そして、DJとしては「般若万歳」シリーズを手掛けるのと並行して、トラック・メイカーとしても散発的ではありますが、トラックの提供もされてきましたね。一番最初に世に出たのは、「般若万歳」に収録された般若 × SHINGO★西成での“SHOWA SONG (Remix) Remixed by DJFUMIRATCH”ですか?
 
「いや、世の中に出たのだと『SAIZENSEN HIPHOP 200% VOL.2』(2010年)っていうコンピレーションに、リベラルがLIBERAL名義で“真なる音”っていう曲で参加してるんですけど、そのトラックが最初ですね。ただ、自分がトラック・メイカーとしてちゃんと世に出した、って自信を持って言えるのは、般若×ZORN×SHINGO☆西成“GO”のプロデュースですね」
 
 

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