INTERVIEW:

KM

「ラップやリリックの面において考えると、田我流さんやPUNPEEさんのような、『日本語ラップの良さを進化させるライン』がシーンにはあると思うんですね。そういうアーティストとTRAPビートを組み合わせて提示したい、という気持ちがあって。だから、日本語ラップの良さを残しながらも当たり前に最先端を走ってる、つまり『最先端の日本語ラップ』を作りたかったんです」

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 自身のソロ「lost ep」に加え、BAD HOPやkiLLa、SKY-HIなどのトラック・メイクも手がけ、日本のHIP HOPシーンをトラックの面から支えるKM。
 
 西麻布MUSEのレジデントDJとしての活動と紐付いた、フロアと直結したサウンド・アプローチが印象的な彼の作品だが、初のソロ・アルバムとなる「FORTUNE GRAND」は、フロアと繋がりながらも、よりKMのオリジナリティや“エゴ”を感じさせる作品として完成した。決して派手でアッパーなTRAPビートを打ち鳴らし、リスナーを無理矢理にでも高揚させるような作品ではない。むしろ、ドラッグやヴァイオレンス、蔑視的なリリックを排除した構成と、ラッパー陣の内面性を描くようなラップに、ポップスとも親和性のあるビートが組み合った、重心の低い、しっかりと聴き込むことが出来る作品として完成した本作は、TRAPに対して苦手意識を持つリスナーにこそ聴いて欲しい、そして気付きを与えるような一作だ。
 
 
■KM君がApple Musicにアップしていた「僕のルーツ」というプレイリストを拝見したんですが、APHEX TWINやPREFUSE 73、NUJABESなど、現在のKM君のトラックからすると意外なメンツも多く、興味深いリストでした。
「あのリストは、本当に僕のルーツという感じですね」
 
■元々、そういった音楽を聴き始めたキッカケは?
「DRAGON ASHが小学校のときに話題になって、それで深夜番組で“Let yourself go, Let myself go”のライヴ映像を観て、DJっていう存在を知ったんですよね。それとほぼ同時期に、MIX MASTER MIKEかDJ SHORTKUTのターンテーブル・ルーティンもTVで観て、DJやスクラッチに興味を持ったんです。ただ、スクラッチに関しては才能がなかったのか、今ではほとんどやりませんが(笑)。それで、13歳でターンテーブルを買いました。それが1999年ぐらいだったので、街にメチャクチャ音楽がある時期で」
 
■J-POPでもミリオン・ヒットが珍しくない時期でしたね。そして、DJもブームで渋谷・宇田川町は「世界で最もレコードが集まる街」だと言われていました。
「僕は出身が渋谷なので、そういう環境がすぐ近くにあって。且つ、学校が吉祥寺だったんで、吉祥寺のDISK UNIONや下北沢のJET SET RECORDSにも通っていて。その中でも、JET SETの品揃えが自分で一番ピンときたんですよね。それが『僕のルーツ』リストにも反映されていると思います」
 
■あのリストを見ると、インストやトラック物も少なくないですね。
「最初はカッコ付けてそういうのを聴いてた部分はあると思うし、ラップよりもトラックに興味があったんだと思いますね」
 
■日本語ラップはそんなに聴いてなかった?
「いや、そんなことはないです。でも、当時って『ポップなモノはダメ』みたいな風潮があったじゃないですか。だから、DRAGON ASHやRIP SLYMEは好きで聴いてたんだけど、『それはダメなのかな……?』って(笑)。でも、THA BLUE HERBを聴き始めて、そこからキングギドラやMSC……って、結構アングラ志向になっていってたと思いますね。いろんな音楽がバンバン出てきてたし、レコ屋でもいろんなレコードが“マスト・バイ!”みたいな状況だったんで(笑)、とにかく雑食にいろんなモノを聴いてました」
 
■そして、クラブのレジデンスDJ、いわゆるハコDJを16歳から始められたそうですね。
「その話、して大丈夫かな……?」
 
■もう時効だと思うんでお願いします(笑)。
「西麻布にあった『3.2.8』っていうクラブですね。確か、mixiで繋がったDJの先輩がいて、その人から『サポートで入ってくれないか?』っていう話をもらって始めたんです。でも、その初日にレコードバッグを抱えてクラブに行ったらその先輩がいなくて、聞いたら飛んじゃったらしくて。それでどうしようかと思ってたら、お店の人から『一晩出来る?』って(笑)。とにかくその晩はひとりで回して、やりきったら閉店のときに『来週も来れるか?』って訊かれて、そこからハコDJを始めたんですよね。そのときにもらったギャラは3千円だったんですけど、それはいまだに憶えてますね」
 
■2000年代にハコDJから始めるのは、DJとして結構珍しいキャリアですね。そして、DJ CELORYらがプレイするイヴェント『BON VOYAGE』にも参加されますね。
「18歳のときですね。大学の先輩がボンボヤ・チームと繋がってた流れで、20歳ぐらいまで参加させてもらって。他にもHARLEMとかのDJも体験させてもらったんですけど、いかんせん僕は集客力が弱くて」
 
■ずっと東京にいて、若くしてそういう世界に出入りしてるのに、集客が上手くいかなかった、と。
「全然人脈がないんですよ。『人よりコアな音楽を知ってるのが全て』みたいな考え方だったから、どんどんアングラやコアな音楽に進んでたので、高校や大学でも音楽の話をするような友達がいなくて。『DJやってるんだけど』って、ダンス部とかに近づいてたらもっと集客できたんでしょうけど、そういう性格でもなかったし」
 
■クラブに呼んだら来るような連中は……。
「『チャラいだろう、どうせ』みたいな(笑)」
 
■そりゃ集客できませんね(笑)。
「それで、またハコDJに戻って、3.2.8の後は、同じ西麻布のMUSEっていうクラブのレジデントを始めて。集客しなくても週末には千人ぐらい入る箱なんで、集客の心配もなくなり(笑)」

■ハコDJの経験は、自身のどんな部分に影響していますか?
「基本的に、お店からはオール・ジャンルでのプレイが望まれるので、自分の得意分野以外の音楽も聴かないとならなくて、ディスコやジャズ、ロックやハウスもチェックするようになったし、先輩からも色々教えてもらって。その頃の音楽修行は、自分の糧になってると思いますね」
 

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