INTERVIEW:

鬼頭

「グラフィティって、元々アメリカの文化じゃないですか。その中でも日本人が描いてるっていうことは見せたかったし、“和洋折衷”じゃないけど、偏らない形でいろんな要素/スタイルを入れたかったんですよね。アメリカの文化に憧れた日本人なワケだし、『日本人が描いてるんだろうな』っていうのを(作品を通して)分からせたくて、だから漢字でグラフィティも描いてたし」

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 00年代前半から、妄走族関連のアートワークやフライヤーをきっかけに、様々な表現手段で日本のHIP HOPシーンに向けてその絵心を披露してきたグラフィティ・ライターの鬼頭。何らかの形で彼が手掛けてきた作品を一度も見たことないがという人は — 少なくとも“HIP HOPリスナー/ヘッズ”と自負している人ならまずいないだろう。街中の壁や電車に描くというイリーガルな行為から誕生した文化というのもあり、グラフを描く上でのスタンスは、アウトロー的なスタンスから積極的に世間に露出していくスタンスまで、ライターによって様々だが、鬼頭は後者のスタンスでグラフィティというアート・スタイルを表現し続けてきた。
 
 そんな鬼頭が、この度自身の地元である三軒茶屋で初となる個展『鬼頭Exhibition』を開催する。彼自身はミュージシャンとして活動しているわけではないが、日本のHIP HOP、特に東京・渋谷〜三茶のHIP HOPを語る上では決して外せない重要アーティストのひとりである彼に、この機会に話を伺うことが出来た。妄走族結成前夜の話から、自身のライターとしてのスタンスに至るまで、興味深い発言多数だ。
 
 
■鬼頭君は東京・三軒茶屋が地元ですし、HIP HOPやストリート・カルチャーに没頭していく過程を語って頂く上でやはり妄走族の存在が大きいのは間違いないですよね。最初に彼らとツルみ始めたのは何歳ぐらいからなんですか?
「俺、MASARU君と同じ中学校で、そこから中1ぐらいからGami君とかと遊ぶようになって。般若とMASARU君とは同じサッカー部だったんですよね。妄走族の人たちは、ほとんどみんな小学校から一緒だから、その繋がりで他のメンバーとも遊ぶようになった、って感じですね」
 
■その後、HIP HOPに目覚めていくと思うんですけど、具体的に誰がキッカケで他のメンバーに伝播していったんですか?
「俺は、般若がやってるのを見て、そこから『みんな一緒にやってるな』っていうのを傍らに見てましたね。それこそ般若がラジカセ持ちながら、みたいな感じでした。それぐらいの時期には、みんなフリースタイルとかやってたっぽいですね。K5R君とかも、外でよくフリースタイルしてた記憶がある。中学生の頃からみんなHIP HOPは好きで、Gami君とか剣桃太郎の家でよく落書き — レター/タギングみたいなのは描いてましたね。Gami君とかも描いてましたよね?」
Gami(神)「落書きはしてたね。でも、鬼頭がやっぱ絵、上手いなって当時から思ってたね。出会った頃からノートに落書きしてたし」
「みんなから『絵が上手い』とは言われてましたね、学校の先生とかも。中学校入ったら、体育と美術しか授業はあまり出てなかったし(笑)。俺らが中学生の頃、よく『100% HIP HOP』みたいなコンピがあったじゃないですか。そういうのを聴きつつ、俺は雑誌のFineとかを通してグラフィティのことは知ってて、中学生の頃からスプレー使って字は描いてましたね。英語じゃなかったりもするし(笑)」
 
■それは……“夜露死苦”的なヤツですね(笑)。
「中学校の校内とかでも描いてたし(笑)。あと、みんなの単車のタンクとかも俺が塗ったりしてて。スプレーを使うのがその頃から好きで。俺、スケボーもやってたから、そういうの(ストリート・カルチャー)はずっと身近にあって。でも、始めた頃はノズルとかも何を使っていいか分からない時代だったから『あんま上手く描けねぇなー。どうやって描いてるんだろう?』って思ってました。スケボーは、単車乗るようになってからだんだんやらなくなっちゃったんですけど」
 
■妄走族に影響されて、ラップやトラック・メイクのような音楽的な方向に興味は向かなかったんですか?
「俺はやっぱ、まず絵を描きたいっていうのがあって。妄走族って元々、三茶の昭和53年産まれの人たちとGAS CRACKERZ(DEN/ZORRO)がくっついて産まれたモノだけど、そこからグループのジャケットとかフライヤーをちゃんと仕事としてやろうよ、みたいな感じでDENちゃんたちに仕事を振ってもらったんです。当時、みんなで借りてた事務所があって、DENちゃんとかから『フライヤー作るんならパソコン必要だから』っていうことで事務所にパソコン買ってもらったりして、『こういう風にやった方がいい』みたいにやり方を教えてもらって。それって結局、フックアップみたいなことなワケじゃないですか。それ以外のDJ/ダンサーとかもみんな仲間でやってたし、そういう風に仲間だけで成り立ってたっていうのは、普通の会社とはまた別の形だし、それがスゲェな、って思ってましたね。『それがHIP HOP』じゃないけど、仲間と一緒に作り上げていくっていうのはHIP HOP的な要素ではあるじゃないですか。そういう雰囲気はいいな、って思ってましたね。向こうのMVとかでもラッパーの後ろに『コイツ、何やってるんだろう?』ってヤツとか絶対いるじゃないですか。でも、実はそういうヤツが裏で動いてたりしてて。そういうことを妄走族は実際にやってた。だから、俺は『ラッパーもいて、DJやダンサーもいて、グラフィティ・ライターもいて』みたいに、そういう仲間たちの“ツール”のひとつとして自分の持ち場を担当してた、っていう認識の方が強かった気がします。そういう風に(チームの一員としてそれぞれの役割があった上で)やるのが夢というか、理想だった」
 
■もちろん、ストリートで発信していた作品は妄走族以前からあったと思うんですけど、実際に世に広く出たという意味での最初の作品は?
「一番最初は、妄走族の1stアルバム『君臨』(00年)で挿絵みたいのを描いたんですよね。2枚ぐらい描いた絵を妄走族のアルバム・アートワークに入れてもらって。それ以前は適当な名前で活動してたんだけど、アルバムにクレジットを載せてもらうことになって、そこで妄走族の人たちに付けてもらった名前が“鬼頭”なんです。なんでこの名前になったんだっけな……確か、俺は『英語の名前にはしたくない』とは言ってたんですよね。だから、漢字で苗字的な名前にしたのかな。なんか強そうじゃないですか?“鬼”って入ってたら(笑)」
Gami(神)「あと、任侠映画とかもよく観てたから、そういう要素もちょっと入ってたかもしれない」
「それ以前は、『グラフィティを通して名を広めたい』というより、ただ単純に落書きをしたかっただけだったけど、別名が出来たことで好き勝手できるようになった(笑)」
 
■その時期にTOMI-E氏と出会って、ACCに加入するわけですよね。
「ACCは、元々TOMI-E君がアジア人だけのライターで始めてたんですよね。565君(G-MAN)が仲良くて、そこで紹介してもらってからですね。あの人がいなかったら、『グラフィティを仕事にして生きていく』っていう発想にはならなかったかもしれない。例えば顔を出したりとか、グラフィティ・ライターだとやらない人が多いじゃないですか。でも、俺的にはそこじゃなかったというか、TOMI-E君もうそういうスタンスだったから、『そういうチョイスもあるんだ』って思って。結局、グラフィティ・ライターとして自分が目指してたのは、『街で描きまくって』というよりは『作品を残したい』っていう想いの方が強かった。壁とかに描いても結局消されちゃうし。もちろん、それもグラフィティ(の魅力)だと思うんですけど、ゆっくり描いたらもっと上手い人はいるワケじゃないですか。(自分の素性を)隠して活動している人の方がリアルだと思うし、そういう人たちが(堂々と)描ける場所があればもっと良いワケじゃないですか。立場は違えど、みんながグラフィティのことをもっと認識すれば、もっと広がると思うから、だからこそライヴ・ペインティングもやってるし。TOMI-E君もそういうスタンスでキャンバスや洋服、ジャケットだったりとかに描いていたから、そこはTOMI-E君から影響を受けましたね」

■取材させて頂くにあたって、鬼頭君のプロフィール/作品リストを拝見しましたが、大きめの仕事だけをまとめてるリストでも凄い数ですよね。大小合わせると1,000個ぐらい手掛けてそうですよね。
「それぐらいあるかもしれないですね。毎月やってたフライヤーとかもあったし。パソコンの使い方とかも、スゲェやることがあったから覚えられたというのはあったっすね。フライヤーとか、実際に仕事を振られないと自分で作るワケがないじゃないですか。そこで必要なモノを揃えたり作り方を覚えられたな、って。自分がいろんなスタイルで作品を作れるのは、そのときに育ててもらったからでしょうね」
 

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