INTERVIEW:

MC松島

「1stアルバムだから僕らしくやろう、と思いました。『僕らしさ』って、意外とマジメな部分だったのかもしれませんね。後は、『名盤にしよう』と思って頑張りましたね。1stで名盤を出さないとラッパーのキャリアとして美しくない感じがするし、どうせなら名盤でデビューしよう、って」

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 これまでiTunes配信を中心に、吉田沙保里をテーマにした「She’s a hero」やリリース時にネットを中心に話題になっていた事象を内容に込めた「デトロイト・テクニック・ハウス」「ヒップホップ警察」、そして“B.M.K.D.(バトルMCは曲がださい)”“ボズファンクラブきもい”といった批評性を込めた作品など、様々なアプローチで膨大な楽曲をリリースしてきたMC松島。
 
 加えて、SNSでの発信など — 過剰な自己表現故に極めて丸出しな存在な筈なのだが — 何故か、なかなかに底が見えない存在だったのだが(失礼)、初のソロ・フィジカル・アルバムとなる「hospes」では、非常に明確に、理路整然と、自分のイズムや理解/意識を作品に込めている。
 
 その意味でも、このアルバムは「MC松島にとってのHIP HOPとは何か?」を突き詰めた作品と言えるだろう。
 
 それは“ヒップホップ警察”においての、ある種の皮肉を内容の中心にしながらも、結末には「HIP HOPの明日なんて知らない/でも明日のHIP HOPが知りたい」という言葉を置き、その実には非常にピュアなメッセージを込めていた彼のスタンスにも通じるだろうし、そういった、これまでの彼の作品の聴き方も変えるようなインパクトも感じさせる作品に、このアルバムはなっている。MC松島、齢30にして遂に立つ!
 
 
■これまでの膨大なリリースを丹念に追うとそれだけで時間が尽きてしまうと思うので、まずは概論的に松島君のキャリアを教えて頂きたいのですが。
「一応、中3ぐらいからなんとなくラップを始めて今に至る、という感じですね」
 
■それもザックリしすぎだけど(笑)。
「でも、活動らしい活動は近年始まったって感じなんで、端折るとそうなってしまう(笑)。振り返ると15歳ぐらいからひとりでラップを始めて、高校生になってからは5MCぐらいのグループを組んでました。それが、SALUやRefugeecamp(松島が所属するクルー)にも参加してるFAKE ID a.k.a. FRAMEと組んでたFAKE IDっていうグループですね」
 
■そのグループでクラブなりライヴ・ハウスには出てましたか?
「出てました。札幌も今よりクラブが活発で、毎日どこかでHIP HOPのイヴェントをやってたんですよ。デモを持って行けばライヴをさせてもらえるっていう状況だったし、ノルマもキツくはなかったので、僕らもいろんなイヴェントに出てて。ただ、僕が一番最初にFAKE IDを抜けたんですよね。高校卒業のタイミングで活動も弱くなっていってて、僕自身もみんなでやるのは別にいいかな、って。今は、SALUとFRAME以外のメンバーはラップをやってないです」
 
■そのときのラップの内容は?
「メンバー同士で趣味もバラバラだったんですが、僕は雷とかNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDに憧れていたので、そういう世界観だったと思います。私生活はまったく伴ってなかったですが」
 
■では、ソロで動き出してからの展開はどのように?
「恐らく10年ぐらい前だけど……あんまり覚えてないですね。活動って言ってもライヴしかなかったんで」
 
■10年前だと、フリー・ダウンロードやYouTubeよりも、まだまだCDが作品発表のメインだったと思いますが、リリースの動きは見られないですね。
「思いつかなかったですね、正直。『お金があれば誰でもCDを出せるんだな』とはぼんやりと思ってたけど、CD出して全国を周って、って人と自分の活動が地続きだとは思ってなかったんです。橋本っていうマイメンとラジオCD-Rを無料配布したりはしてました」
 
■自分のやってることは趣味であり、それをビジネスなり形にする意識が乏しかった、と。
「そうですね。ホントに25歳ぐらいまでは何も考えてなかったし、何でやってるのかも分かってなかった(笑)。ただ、ラップを辞める理由もないからダラダラ続けてた、って感じですね。音楽活動の仕組みが分かって『ちゃんとしよう』と思ったのは、ここ2〜3年の感じですね。僕の曲を楽しんでくれたり支えにしてくれる人もいるってリアルで感じることが出来てきたのも大きいです。喜んでくれる人がいるならやりがいもあります。でも、地方のヤツってそういう感じが多いと思いますよ」
 
■ただ、北海道にはTHA BLUE HERBやS.P.C.、MIC JACK PRODUCTION、N.C.B.B.など、全国に打って出て音楽をビジネスにしてきたグループも多く、その姿を見ていたとは思うんですが。
「漠然と憧れてはいたけど、その世界と自分が繋がってない、って感じでしたね」
 
■漫画で見る世界、というか。
「それが近いと思いますね。自分の周りの連中は『良い曲を作る/良いライヴをする』っていう意識はあるし、それを精力的にやってるけど、『どうなりたいか?』っていう具体的なヴィジョンが弱いんだと思う。それは、今でも」
 
■では、松島君に意識変化が起きたキッカケは?
「いくつかあるんですけど、大きいのはSALUのデビュー。彼が『IN MY SHOES』(2012年)を出したときですね。幼馴染だったヤツから久々に連絡があったと思ったら『アルバムを出すんだ』って。内容としても、歴史的に見ても価値のある一枚だと思うし、それを友達が出してラップ・ゲームにエントリーするっていうことが、体験として衝撃だった。同じ年に山下達郎の『OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012』もリリースされて、そこに収録されたSUGAR BABEの曲を聴いて、そこでも『ちゃんとやんなきゃダメだ』と思ったんですよね。『20歳そこそこの山下達郎はこんなに凄い曲を作ってたんだ、これぐらいちゃんとしなきゃダメだ』って」
 
■SALUにとってのBACHLOGIC、山下達郎にとっての大滝詠一のように、徒弟的な意味ではなく、歳上のプロデューサーに才能を認められたという部分でも、そのふたつには共通点を感じますね。そういう関係性は松島君にはあるんですか?
「誰の下に付いてるっていうよりは先輩方がみんなサポートしてくれる。札幌って狭い故にそういう環境だと思います。強いて言えば、僕は“飛行機に乗り遅れる”のトラックを作ってくれたDJ TAMA a.k.a. SPC FINESTさんやS.P.C.にとてもお世話になったかな、と」
 
■なるほど。そして、UMBなどのMCバトルにもその当時から出場されていましたね。
「今ほど(バトル・シーンとHIP HOPシーンが)断絶してなかったし、当時、『ラッパーだったら出ないとダメ』っていう空気があったんですよね。それで出ざるを得なかった、というか。ただ一応、出るからには日本一を目指そうと思ったけど、『日本一になっても何があるんかな?』とも思ってましたね。でも、そのノリでも予選を突破しちゃうんで……」
 
■その意味では、ずっと大きな挫折もなく、大きな希望もなく……。
「スルスルっときちゃってたんですよね。サヴァイブもなければ、目標になる景色もない。でも、逆に東京で活動してたらとっくに辞めてたと思いますね」
 
■数はあまり多くないですが、東京でもライヴをする機会はありますよね。札幌との感触の違いは感じますか?
「一般化は出来ないけど、僕が見る限り、札幌はお客さんがシャイなんですよね。とにかく盛り上がり方が鈍い。クラブにたまたま来て、たまたま観て帰る、みたいな。だから、シーンが熟成しにくいし、アーティストとしても『お客さんの要望に応える』ってことが難しい。そして、ミーハーなのか、東京で話題なモノは盛り上がるんだけど札幌独自の盛り上がりは少ない。10年以上前はもっと熱気があったのかもしれないけど、今はほとんどシーンがないような状況になってますね。それは寒いせいと、津軽海峡のせいだと思うんですが(笑)」
 
■自分も「東京に出る」という気持ちはなかったんですか?それは今作の“東京物語”の中でもメッセージになっていますが。
「東京のピラミッドをストラグルして昇るより、小さい山かもしれないけど札幌のトップになれば、東京の一番と対等に接することが出来ると思っていて。それに、逆に何で俺が引っ越さなきゃいけないんだ、って。『俺以外が引っ越してこいよ』とは思ってますね。そっちの事情に合わせて引っ越すようじゃまだまだだな、と(笑)」
 

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