COLUMN:

BEAT SCIENTISTS 〜HIP HOPのおとづくり〜 feat. STUTS(前編)

■高校の頃にはどれぐらいトラックを作ってたんですか?
「高1〜2のときはひたすら作ってました。特に、高2のときは寮から下宿に移ったんで、放課後はずっと部屋に籠もってトラックを作ってました。高3のときは受験勉強をしなくちゃいけなかったんで機材は封印してたんですけど、高校のときのトータルだと100曲位は作ってたかな、と思います。」
 
■それを発表することはなかったんですか?
「パソコンが禁止だったので、ネットで発表するようなことが出来なかったんですよ。ただ、下宿に入ってからはかろうじて携帯は大丈夫だったんで、『モバゲー』みたいな携帯サイトに、コンポからトラックを流しながらスピーカーに携帯をくっつけて録音/アップしたりしてました(笑)」
 
■涙ぐましい努力!そういう部分は、同世代でもネットとの接点が高かったtofubeatsとは違いますね。
「だから、高校のときにインターネットOKな環境だったら、もっと違う展開をしてたかもしれないと思いますね。でも、その不自由さによって、自分の方向性やクセが形成された部分もあると思います」
 
■そして、大学進学を機に上京されますね。
「2008年ですね。それで、携帯サイトで繋がったラップ・グループのバックDJをやることになって、 上京して2日後ぐらいにはライヴDJを始めたんです(笑)」
 
■展開が早すぎますね(笑)。DJはやってたんですか?
「そこまでしっかりはやってなかったんですが、一応ターンテーブル2台とミキサーは持ってたんで、練習はしていました。で、その加入してたグループで出てた渋谷HAZARDのイヴェントにはYOUNG DRUNKERも出てて、その周りにはJJJやFEBB君がいました。それで、自分のトラックをいろんな人に渡してて、それにYOUNG DRUNKERも反応してくれて『THE SENSE & THEORY』(09年)に4曲トラックを提供したり」
 
■全国流通する形の盤としては、RAU DEF「ESCALATE」(10年)が最初になりますか?
「そうですね。YOUNG DRUNKERに提供したトラックをRAU君が気に入ってくれて、それで声をかけてくれたんです」
 
■以降も、KMCやZORN、HAIIRO DE ROSSI、DARTHREIDERなどにトラックを提供していきますが、提供するアーティストの幅が非常に広いのがSTUTS君の特徴でもあると思って。
「ZORNさんに提供したのも、YOUNG DRUNKERからの流れだったと思います」
 
■下町・東京の東側チームの流れというか。
「C-MONKEYさんやVLUTENT RECORDSのVOLOさんともその当時に出会って。週末は基本的にクラブに顔を出してました。ただ、クラブに行き過ぎたせいで、狙ってた学部に行けなくなったりもして」
 
■(笑)と言うと?
「通っていた大学が、1〜2年生の成績で3年以降に進める学部が振り分けられるところだったんですよ。だから、1年生のときに単位を取り逃がすと、その後に取り返しのつかないことになってしまう。で、僕は取り返しのつかないことになってしまって(笑)。勉強したいと思ってたことがあったんですけど、その学部に進めなかったときは悲しかったですね……」
 
■ただ、その当時の動きが今の音楽家としてのSTUTS君に繋がっているんだから、人間万事塞翁が馬……というのは慰めにはなりませんかね(笑)。その当時はどんなクラブに通ってたんですか?
「渋谷FAMILYや池袋bed、中野HEAVY SICKとかです。基本的にライヴが観れるタイプの小箱に、いつもいました」
 
■トラック提供してきた人たちが、ライヴの強いタイプのラッパーが多いのは、それが理由ですか?
「そうかもしれません。ライヴを観てカッコ良いと思った人にビートを渡してたんで、自然にそうなったと思います」
 

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