COLUMN:

BEAT SCIENTISTS 〜HIP HOPのおとづくり〜 feat. DJ PMX(前編)

■その前年の95年には、DS455として“ROLLIN WITH MY MUSTY, ROLLIN WITH MY CADI”、OZROSAURUSのMACCHOがMC MACCHO名義で“NANATSUKI”をコンピ「CLUB WILD.B」に提供されますね。
「当時、俺はECDのライヴDJもやってたんだけど、下北沢のSLITZでライヴをやるときに、Kayzabroが地元の後輩として連れて来たのがMACCHOだったんです。それで、ある日みんなで葉山に遊びに行くことになったときに、4トラックのMTRを持って行って、みんなで遊びでラップを録ったらMACCHOがとにかく上手くて、『こいつは見込みがあるな』って」

■そのときのMACCHOはまだ中学生ですよね。
「14歳ぐらいだったんじゃないかな。“NANATSUKI”は16〜7歳だったと思う。その時期にはもうMACCHOはソロでイケるなと思ったんで、ソロ曲を作ったんですよね。そしたらその気になって独立して、OZROSAURUSを作っちゃって(笑)」

■オジロのデビュー作となる「ライム・ダーツ」(97年)収録曲“絶望の市場”もプロデュースされていますが、当時PMXさんが感じたMACCHOの凄さ/上手さとは何だったんでしょうか?
「やっぱり“滑舌”と“声の抜け”でしたね。歌詞もその当時はまだ甘かったかもしれないけど、聴き取れるし、フロウもカッコ良かった。もう“新世代”って感じでしたね」

■90年代後期、当時の制作機材の構成はどのようなものでしたか?
「中学のときから使ってるMono/Polyと、EnsoniqのSQ-1っていうPCM音源のシンセ、ドラムだけはサンプリングが多かったんでS1000で走らせてましたね。リード・シンセに関しては海外の音に近付いてたと思います。G・ファンクはどちらかと言えば、あまりフィルターをいじらないでリード・シンセにビブラートを入れたりするのが多いので。でも、もっといろんな機材が欲しかったですね。あの当時だと、RolandのJV-2080とかを海外勢は使ってたと思うんで」

■そういった情報はどうやって手に入れてたんですか?
「MVとか映像に映ってるものをよく見て、とかですね(笑)。ただ、音を聴けば機材の想像がついたり、どうすれば出せるかがイメージできた部分もありましたけど」

■トラック・メイカー同士で情報交換などはありましたか?
「誰かのスタジオに遊びに行ったときぐらいですね。でも、G・ファンクをやってる人が少なかったので、基本的には手探りでした」

■そこで作ったデモは人に渡したりしていましたか?
「基本的には渡してないですね。DSのためだけに作ってました」

■それは、当時のシーンの“西低東高”の状況の中で、G・ファンク/ウェスト・コースト・スタイルのトラックを渡してもしょうがない、という感じですか?
「いや、営業力がなかっただけじゃないですか(笑)。でも、ウェスト・コースト系の繋がりもなかったですね。名古屋の WCC(WEST COAST CONNECTION)が、『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.3』を聴いて俺らをライヴに呼んでくれて、『俺らの他にもディッキーズ着てラップやってる人がいるんだな』って気付いたぐらいで。状況が変わったのは、DSが『BAYSIDE RIDAZ』(00年)を出して、オジロがFUTURE SHOCKから『ROLLIN’ 045』(01年)を出してからですね。そこでDJもウェスト・コーストを流す人間が増えて、ロウライダーも集まって……って、やっとひとつの動きになったというか」

■「BAYSIDE RIDAZ」と「ROLLIN’ 045」は9ヶ月の間を置いてリリースされますね。トラックの切り分けはどのように?
「DSのトラックはもちろん自分たちが選ぶんだけど、オジロに関してはMACCHOと話し合って選んでいった感じですね。自分から『このトラックでやった方がいい』っていう提示もしたと思うけど……それが具体的にどの曲だったかは覚えてない(笑)。でも、『とにかくなんでもやりたい』って、みんなテンションが高かったのは覚えてますね」

 
■リード曲になった“AREA AREA”はPMXさんとオジロがタッグを組まれ、あの曲の登場でそれまで以上に日本語によるウェスト・コースト・スタイルのHIP HOPサウンドが注目される契機になったと思いますが、あの曲をリードにしたのはそういった意思の下ですか?
「いや、俺とMACCHOでリード曲に決めたんじゃなくて、FUTURE SHOCKの代表だったB-YAS君が『絶対コレがいいよ!』ってMACCHOに言って、それでリード曲になったみたい。『こういうウェスト・コースト物はあまりないし、そういうサウンドが作れる先輩がいるならもっと一緒にやった方がいい』って」

■00年に『HIP HOP ROYAL 2000』というイヴェントが日比谷野音であったときに、アルバム・リリース前のオジロも出たんですが、個人的な記憶として、RHYMESTERとスチャダラパーに続いての登場という順番だったと思うんですが、「パフォーマンスが正当に評価されてないな」と思うぐらい、客席の反応がイマイチだった記憶があるんですね。だから、個人的に“西低東高”を感じる機会でもあって。
「でも、『BAYSIDE RIDAZ』を出すときにはウェスト・コースト・サウンドの評価もちゃんと高まってたし、雑誌『CUSTAM LOWRIDING』とか、ウェスト・コーストをバックアップしてくれる体制も整ってきていたと思いますね」

■いちリスナーの印象としては、イースト・コーストのリスナーと、ウェスト・コーストやサウスなどのリスナーが分かれていった感触と同時に、ウェスト・コーストが一大ムーヴメントになっていったと感じていました。
「今までHIP HOPを聴いてなかった人が聴き始めたのかなって。それまでにHIP HOPを聴いてた人たちは両方の流れが分かってるけど、ウェスト・コーストHIP HOPを聴いてシーンに興味を持った人が大勢いて、その層を掘り起こしたことでシーンが大きくなっていったんだと思いますね」

 
■シーンが膨張していく様はどう見えていましたか?
「あんまり実感はなかったけど、イヴェントが増えてお客さんが増えたんで、単純に楽しかったですね。でも、逆に『いつまで続くのかな?』っていう気持ちもありました。ただ、07年に『LocoHAMA CRUISING mixed by DJ PMX』をリリースして、“4 My City feat. AK-69, RICHEE, HOKT, HIRO of LGYankees, BIGIz’ MAFIA”のMVを撮ったときにはクルーザーに乗って、08年にソロ1st『THE ORIGINAL』に収録した“Miss Luxury (P.V. Version) feat. MACCHO, GIPPER, KOZ, HI-D. Foxxi misQ”ではMVでヘリに乗ったり、やりたい放題やらせてもらいましたけど(笑)」

 
後編につづく
 
 

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