COLUMN:

BEAT SCIENTISTS 〜HIP HOPのおとづくり〜 feat. DJ PMX(前編)

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■その当時、衝撃を受けていたHIP HOPのプロダクションは?
「PUBLIC ENEMYですね。好きなのは1st『YO! BUM RUSH THE SHOW』(87年)ですけど、プロダクションとして衝撃を受けたのは2nd『IT TAKES A NATION OF MILLIONS TO HOLD US BACK』(88年)。“REBEL WITHOUT A PAUSE” — D.Lは『あれはULTRAMAGNETIC MC’S“EASE BACK”のパクリだ』って言ってたけど(笑) — とかは勉強になりましたね。ただ、PEに感じてたのはロックの感触で、黒いグルーヴとしてはERIC B. & RAKIM“MY MELODY”(86年)とかの方が好きで、その方面からHIP HOPの“幅”が分かり始めた感じもありますね」

■ECDと制作された作品には、PEのテイストを感じる部分も強いですね。
「PEのプロダクション・チームだったTHE BOMB SQUADやMARLEY MARLもS900を使ってたんで、俺もS900を買って制作するようになって。当時はフレーズ・サンプリングが多かったんで、S900とKAWAIのQ-80っていうシーケンサーの組み合わせでプロダクションをしてましたね。だから、石田さん(ECD)との制作も音がブワッと足されるモノになってたし、石田さんと一緒に制作しながらも、いない間にいろんな音を足したり(笑)。フロッピーが何枚も必要でしたね」

■MPCは使わなかったんですね。
「フレーズ・サンプリングが主だったんで、当時はパッドが邪魔に感じたんですよね。パッドを駆使したプロダクションが広がったのは90年代半ばぐらいだったと思うし。ただ、数年前にMPC60のデッドストックな状態のがEbayに出てて、迷わず買いましたね(笑)。しかも、ROGER LINN(MPC60やLinn Drumなどを開発したデザイナー/ミュージシャン)のサイトにMPC60のOSアップデートが売ってて、それに載せ替えると機材としてはMPC60としてのアナログ・サンプリングならではの質感が出せるのに、クオンタイズや操作性としてはMPC3000になるチップが売ってて、それに入れ替えたり(笑)」

■マニアック過ぎます(笑)。
「MPC3000もオーストラリアの個人が作ってるOSに載せ替えたり(笑)。話を戻すと、そういう東海岸モノを基本的には聴いてたんだけど、N.W.Aで西側に興味が移って、92年にDR. DRE『THE CHRONIC』を聴いて、完全にG・ファンクに進んだんですよね」

■それは一発でそうなった感じですか?
「いや、『STRAIGHT OUTTA COMPTON』(88年)は好きだったんだけど、『EFIL4ZAGGIN』(91年)はハードだったりP・ファンク調の曲も入ってきてたんで、なんかゴチャゴチャしてるなって。ただ、その直後にリリースされたDR. DRE & SNOOP DOGGY DOGG“DEEP COVER”(92年)はハードコアでカッコ良かったし、『またこの路線で行くのかな?』と思ったら、『THE CHRONIC』はそれとは違うメロウさやG・ファンクの原点的な方向だったんで、最初はそんなにピンとはこなかった。ただ、聴き込んでいく内にどんどんハマっていって、次の年にSNOOP DOGGY DOGG『DOGGYSTYLE』(93年)、またその翌年にWARREN G『REGULATE…G FUNK ERA』(94年)で完全に虜になった感じですね」

■プロダクションもそちらの方向に進みましたか?
「そうですね。93〜4年にはMono/Polyを使ってG・ファンクなサウンドを作って石田さんに聴かせたりして、『HOMESICK』(95年)の“バイブレーション”で形になりました」

■95年に「CLUB WILD.B」に収録されたDS455での“ROLLIN WITH MY MUSTY, ROLLIN WITH MY CADI”ではD.Lが「日本初のウェスト・コースト・フレイヴァ」とシャウトしていて、日本でのG・ファンク物はそんなに珍しかったんだな、と。
「珍しいどころか、なかったと思いますね。別モノ扱いっていうか」

■話をDS455に移しますと、まずPMXさんとKayzabroさんが出会われたのは?
「MILOS GARAGEでしたね。彼もPEに影響を受けたHi-TECK GROOVEっていうグループをやってて、並行してミロスで洋服を売ってたんですよ。DE LA SOULが流行ったらメダリオンをどっかで仕入れてきたりとか。そこから繋がって一緒にMAZZの家で遊んだりしてて。それで、俺が『N.W.Aみたいなことがやりたいな』と思ってたときに、彼は地元の友達だったShallaとDS455を組んで、MAZZ & PMXと一緒にイヴェントに出たり。それで95年にZINGIとかシュウちゃん(GANXSTA DX)に誘われて『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.3』用に、“Roll In My Night Of Madness”を制作するんだけど、それは最初は『MAZZ & DJ PMX with DS455』みたいな形で作ったんですよね。だけど、MAZZが抜けて俺がDSに入る形になったんで、最終的にはDS455としてクレジットして。当時もいろんなプロデュース・ワークや裏方をやってたけど、気持ちとしてはDS455でG・ファンクをやりたいっていう方に完全に寄ってましたね。プロモーションとしてG・ファンク・トラックと、それに伴ったDS455での楽曲をGM-KAZのスタジオで作って、プロモ・テープを作ったりしたんですが、なかなか認められなくて。だから、『もっと作品のクオリティを上げる』ってことだけ考えてましたね」

■認められないのが「悔しい」とか「偏見だ」じゃなくて……。
「『シーンに入り込めないなら、クオリティを上げて、有無を言わせないモノを作らないとな』って。でも、『いつかは何か起こるだろうな』と思ってましたね」

■時間的には前後しますが、RHYMESTERの1st「俺に言わせりゃ」(93年)には「Co-produced by PMX」として参加されて、“ワンアンドオンリー”も「RHYMESTER & PMX」名義になっていますね。
「アレもプログラミングに近かったと思いますね。ネタを持ち寄って、『あーでもない、こーでもない』を、ウチの6畳一間にRHYMESTERのメンバーとA&Rの岡田麻起子さん、社長の佐藤善雄さんとその嫁と子供まで来て(笑)。でも、まだ自分の技術力が追いついてなくて、要求に応えられなかった部分もあったと思いますね。当時、FILE RECORDSはソニーの傘下だったんで、レコーディングはソニーのエンジニアさんがやってくれたんですが、その仕事振りを見て、『これはもっとちゃんとやんなきゃな』って意識も芽生えました」

■裏方としてのお仕事としてはBUDDHA BRAND“人間発電所”(96年)のプログラミングというのもありますが、彼らとの出会いはどういった経緯だったんですか?
「コンちゃん(D.L)はKayzabroの高校時代からの友達だったんですよね。それでKayzabroが連れてきたりして繋がって。当時、六本木のJUNGLE BASSで毎週木曜日に、DJ DRAGONやSPICY CHOCOLATE、LL BROTHERSのMASAYA、それから俺が出るオール・ジャンルのイヴェントがあって、結構人は入ってたんで、そこに羨ましがってコンちゃんが遊びに来たりしてましたよ。『女の子が多くていいな〜』って(笑)。で、ブッダが“人間発電所”を作るときに、D.Lがウチにネタのレコードを持って来て、『このループをああしてこうして』『ループに音階を付けて』ってイメージを俺に伝えて制作に入って……なんだけど、そのD.Lの言うイメージは今のDTMなら簡単に出来ることなんだけど、S900じゃ出来ない技術の話だったんですよね。それで、『それは無理だよ、夢膨らませても困るよ』って(笑)」

■では、D.Lが想定してたサウンドはもっと展開があるモノだった、と。
「だったんじゃないかな。もし作ったとしても、当時の機材じゃすごく歪な音になってしまうような指示だったから、『そのアイディアの中だと使えるのはどれ、このネタだと使えるパートはこれ』っていう現実的なアプローチをして。D.Lは納得してなかったけど(笑)。それで俺がループを組んで、DJ WATARAI君がE-MU SP1200でドラムを組んで、エンジニアはIllicit Tsuboiで作ったんですよね」

■PMXさんにD.Lさん、WATARAIさん、ツボイさんとドリーム・チームですね。
「狭いスタジオだったけどね(笑)。でも、そこで裏方の仕事はほぼ最後だったと思う。『もうDSのプロデューサーに集中しよう』って」

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