COLUMN:

BEAT SCIENTISTS 〜HIP HOPのおとづくり〜 feat. DJ PMX(前編)

 

 
■では、HIP HOPとの出会いは?
「高校生でAFRIKA BAMBAATAとかHERBIE HANCOCKを知って。BAMBAATAが“PLANET ROCK”でKraftwerk“TRANCE EUROPE EXPRESS”をネタにしたりしてたんで、最初は黒人がテクノ・ポップをやってるっていう認識だったんだけど、リズムの“溜め”のグルーヴ感やノリが普通のテクノ・ポップとは違って、それがカッコ良くてそっちにハマり出したんです。それから、ART OF NOISEを聴いてサンプリング・ミュージックのことを知ったり、HERBIE HANCOCK“ROCK IT”でスクラッチを知って、家にあったベルト式のターンテーブルで頑張ったりしたんですけど、どうやっても無理だったり(笑)。当時、インパクトが一番大きかったのはスクラッチかもしれない。アレもまた“未来”だなって。目立ったし、新しかった。それで、18歳で大学に進学するために宮崎から東京に出てきて、まずターンテーブルを買って、次にVESTAXのミキサー:DSM-310を買って。東京に来たときにはもうHIP HOPのことばっかり考えてましたね」

■スタンスとしてDJを選ばれたのは?
「DJが“演奏方式”だからですね。今みたいに曲を流して終わりじゃなくて、80〜90年代初頭はMCと阿吽の呼吸でビートを展開させたり、2枚使いでのライヴも多かったから音楽の新しい形だと思ったし、それを自分でもやりたかったんです。だから、クラブDJよりもライヴDJというスタンスの方が強かったと思う。もちろん、クラブDJとしても新宿MILOS GARAGEで隙あらばプレイさせてもらって」

■それがDJを始めたキッカケ、と。隙あらばDJしてたのはMILOS GARAGEでのDJ DOC. HOLIDAY(須永辰緒/sunaga t experience)とECDのイヴェント『CLUB OF STEEL』だったそうですね。
「19〜20歳ぐらいだったと思います。宮崎で同級生だったMAZZと一緒に遊びに行ってましたね。MAZZは同級生だったんだけど、クラスが違ったんでほぼ話したことがなくて。ただ、俺が音楽をやってるのをアイツは知ってたんで、上京したタイミングでアイツも音楽をやりたくなったのか連絡してきて、『じゃあなんかやろうか』って4〜5人でグループを組んだんですよね」

■それはHIP HOPグループとして?
「いや、MAZZは山下達郎が大好きで、そういう方向がやりたかったんですよね。だけど、俺が強引にラップさせて(笑)」

■本当は歌いたかったのに(笑)。
「ファンク・バンドがやりたかったんですよね、彼は。だけど、俺が強引にラップをやらせたら他のメンバーも抜けてって、結果的にMAZZと俺でユニットを組むことになって。それで、MILOS GARAGEでもMAZZ & PMXとしてライヴもさせてもらって。MAZZは人気があったんですよ。JIMMY CASTER BUNCH“IT’S JUST BEGUN”の2枚使いでラップしたり。ただ、ラップが英語だったから、日本語ラップ・シーンの中にはいづらい感じもあって」

■何故、英語だったんですか?
「やっぱり、当時の日本語ラップはまだまだ洗練されてなかったし、自分としてもピンと来てなかったんですよね。今の日本語ラップは違和感ないけど、当時は試行錯誤の途中だったし、英語の方がどうしてもカッコ良く感じた。そんな中で凄いと思ったのはやっぱりMUROですね。とにかくMUROのラップの乗せ方は他のラッパーとちょっと違ってたし、すごくカッコ良かった。日本語ラップはMUROが登場してから一気に進化した感触がありますね。『日本語でもカッコ良いラップが出来るんだ』ってMUROのラップで思った。同じようにそう思わされたのは、MACCHOと出会ったとき。それで、『日本語でもイケる』って思ったんですよね」

■MAZZ & PMXの作品としてはMAZZ+PMX名義でEP「GO YELLOWS GO」が90年にリリースされています。そこにはMUROとBOY-KEN(盤ではBOYEE KENE名義)が参加していますね。
「TRYSTAR RECORDSっていう、キティ・レコードの関連会社からのリリースだったんで、箱根か湯河原にキティが持ってたリハーサル・スタジオ — と言ってもバブルの頃のメジャーのリハスタだから、普通にレコーディングが出来るようなところで、宿泊施設やキッチンも付いてたんで、そこを1週間ぐらい借りて作ったんですよね。経緯としては、当時、川崎CLUB CITTA’でいろんなHIP HOPイヴェントがあって — あの広い中で前1〜2列しか客がいなかったんだけど(笑) — ZINGIやGANXSTA DX、MUROとかと一緒にMAZZ & PMXも出てて。それで、当時のチッタの偉い人に気に入られて『盤を出そうよ』ってなって」

■「GO YELLOWS GO」はCD化もされていないし、オークションでも2万円ぐらい付いているので、僕も含め聴けていないリスナーも多いと思いますが、どういった内容だったんですか?
「刷った枚数も本当に少ないし、自分もジャケしか持ってないんじゃないかな……中身が入ってないかもしれない(笑)。構成としてはフレーズ・サンプリングですね。AKAI S900で作ったと思うんだけど、それはスチャダラパーのSHINCOから借りパクしてたやつです(笑)」

■「スチャダラ大作戦」の裏ジャケに載ってるやつですね(笑)。
「SHINCOの家までMAZZと行って借りてきて。で、借りたままにしてたら、高木完さんから『SHINCOが“これ以上借りてるなら金取るぞ!”って怒ってた』って言われて、慌てて返すっていう(笑)。当時、デモはいっぱい作ってたんですけど、俺が持ってたのはAKAIのS612っていうサンプラーで、数秒しかサンプリング出来なかったし、音が悪かったんですよね。秒数を延ばせ延ばすほどビット数が下がって、音も劣化していってしまって。それでS900を借りたんですよ」

■フレーズ・サンプリングという手法を知ったときの感触は?
「『ラッキー!』というか、『曲を作らなくても曲が作れるんだ』っていう発見でしたね。カッコ良いループにスネアとハット、キックを足せばビートが完成するっていう。ただ、当時は金がなかったんで、辰緒さんの家に行ったか、辰緒さんが持って来てくれたブレイク・ビーツとかネタもの、レア・グルーヴを聴いて勉強してましたね。それで『GO YELLOWS GO』をリリースした流れと『CHECK YOUR MIKE』に出場してた流れもあって、ECDとか高木完さんからの(仕事の)話……いわばMAJOR FORCE周りの話が来るようになって。MAJOR FORCEはFILE RECORDSと近かったんで、自動的にFILE周りの話も来るようになった。それで、ECD『ECD』(92年)や『Walk This Way』(93年)、キミドリ『キミドリ』(93年)の制作に参加して」

■「キミドリ」にはクレジットにPMXさんの名前が入っていないので、ちょっと確認したいんですが。
「やってる筈(笑)。全曲じゃないけど、何曲かはプログラムしてますね」

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